テレポートを唱えた瞬間、まるで羽毛のように体が軽くなったような感じする。
そして視界が白く染まり、天高く舞い上がるような浮遊感が訪れた。
空間を渡る空白の時間、白くて何も見えなくて、何も…考え、ラレナイ――――
だが、その浮遊感も一瞬のことで、風がモロクの乾いたものとは違い、湿り気の孕んだ涼しい風に変わると
すぐに白い世界は色を取り戻し、羽毛ように軽かった体が急に重くなったように感じられる。
(ここは…)
荒涼とした砂漠とは違い、新緑の木々が茂り、野には色々とりどりの花々が咲き誇り、小鳥たちのさえずりが
歌となって響き渡っている―――
(プロンテラの…東門の外の森?)
雪奈がプロンテラ東にワープアウトした、と悟ると同時に思い出したように重力に牽かれて―――
「ぐげぇ…っ!?」
という、潰れたロッダフロッグのようなうめき声が足元から聞こえてきた。
「え…きゃっ」
そして雪奈は足の裏に感じる固くて程よい弾力のある感触に気づいた。
「もしかして…」
雪奈は悪い予感に囚われながらも、おそるおそる足元に視線を向けた。
足元には青年が寝ていた。雪奈は運が悪いことに昼寝をしていた青年の上に降りたってしまったようだ。
雪奈に胸を踏んづけらている青年は、顔を真っ赤にして「ぐぁ…うげぇ…」、と苦しそうにもがいている。
「ゆぎな…どいてぐれぇ…」
青年は喉の奥から声を振り絞って、地獄の底から聞こえてきそうな濁った声音でそう告げた。
「ご、ごめんなさい…兄様!」
雪奈が慌てて胸の上から降りると、青年―――雪奈の兄であるプリースト、雪乃は半身を起こして
「げほっごほっ…ぜーはぁー」
と、片手で胸を抑えて…いや、胸についた足跡をはたきながら、咳き込みつつ、大きく息を吸い込む。
「はぁはぁ…」
まるで女性のように端整な顔を歪めて、雪乃は肩を上下させて息をする。
そんな兄の様子を期せずして加害者になってしまった雪奈はおろおろしながら、眺めている。
「はぁ…ふぅ」
ようやく落ち着いてきた雪乃は、最後に小さく息を吐いく。
「あの…大丈夫ですか、兄様」
おずおずと尋ねる雪奈。
「うん…なんとかね」
雪乃は雪奈を見上げて微苦笑して答える。
「本当に、すいませんでした…」
小さく肩を落として頭を垂れて、もう一度謝る雪奈。
雪乃はそんな雪奈の様子に目を細めると「よっ…」、と小さくかげ声を上げて立ち上がると
「まぁ…別に、大丈夫だったんだし、そんなに気にしなくていいぞ?」
そう言って、微笑みながら雪奈の頭を撫でる。
「は、はい…」
雪奈は小さく呟いて、上目遣いに頭を撫でる兄を仰ぎ見る。
兄は雪のように白い髪を首のあたりまで伸ばしていて、眼は自分と良く似た柔らかい光を湛えた碧。
そして、女性のように眉目と顔たちは整っており、それは微笑む表情と頭を撫でる手つきをより優しく感じさせるような気がする。
トクン、トクン――――
雪乃に頭を撫でられながら、雪乃の優しげな瞳を見ていると、胸が高鳴り少しずつ鼓動が早くなる。
(あぅ……)
雪奈は頬をほんのり赤く染めて、うつむく。
すると、頭を撫でる雪乃の手がぴたっと止まる。
「こういうふうにされるの、いやだった?」
人差し指で頬をぽりぽり掻きながら、雪乃。
「いえ、べつにそうじゃなくて…ちょっと恥ずかしかったです」
雪奈は蚊の鳴くような小さな声で答える。
「そっか…。まぁ年頃の女の子にするような真似じゃなかったかな」
雪乃は苦笑しながら
「でも、雪流はこうしてやると、子猫みたいに喜ぶんだけど」
と、言葉を続けた。
「そうですね」
雪奈は相槌を打ちながら自分よりも背の低いモンクの少女―――双子の姉である雪流の姿を思い浮かべる。
雪流ならきっと兄に頭を撫でられると「えへへー」、と笑うか「にゃぅん」、とそれこそ子猫のように目を細めて喉を鳴らすだろう。
そんな無邪気な姉の姿を容易に想像できて、雪奈は小さく笑みを浮かべた。
「そういえば…」
雪乃が何かを言おうと口を開いたとき―――
「ゆきさーん」
と、雪乃か雪奈かを呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
ふたりは声のしたほうを振り向くと、東門のほうからこちらへ走ってくるプリーストの女性の姿があった。
「ほさちさんですね」
「ほさちだね」
声を揃えて、ふたり。
ほさち、と呼ばれた長い銀色の髪を二本のおさげにしたプリーストの女性が、ふたりの前にたどり着くと
「こんにちは」
雪奈は深々と頭を下げて挨拶をする。
「はぁはぁ…こんにちは」
肩で息をつきながら、胸を抑えて乱れた呼吸を整えながら、挨拶を返すほさち。
ちなみに、ほさちは背が雪乃より頭ひとつ分低く、そして雪奈よりもやや低い。余談だが胸も雪奈より…である。
「どうしたの?そんなに慌てて?」
首を小さく傾げて尋ねる雪乃。
「えっと…急な用事じゃないんですけど、ゆきさ…雪乃さんに―――」
ほさちは、雪乃だけのときは「ゆきさん」、と呼んでいるが雪奈も居るため「雪乃さん」、と言い直して
「手伝って欲しいことがあって…」
と、言葉を続けた。
「嫌な予感…」
間髪入れずに呟く雪乃。
「それで雪乃さんに―――」
そんな雪乃の呟きは無視してほさちは言葉を続ける。
「執務室に溜まってる本の整理をてつだ…」
「ぶ…っ!」
ほさちが言い終わる前に、雪乃は思わず吹き出してしまう。
「ラピスの執務室に溜まった文献とか資料は、ついこないだ全部片付けたばかりじゃないか…」
「そうなんですけどね…」
ふたりは「はぁ…」、と仲良く肩を落とす。
ラピスというのはふたりの直属の上司で、仕事に必要な資料や文献から趣味で読んでいる書に至るまで
ありとあらゆる本を執務室に持ち込むため、よく執務室は積み上げられた本でいっぱいになってしまうのだ。
「まさか数日空けてるだけで、そんなことになってるとは…」
「思いもしないですよねぇ…」
雪乃とほさちはそれぞれ別件だが、ここ数日は仕事で教会を離れていたため、よもや留守中にまたラピスが
本を山と溜め込んでるとは知る由もなかったのだ。
「……」
「……」
執務室の本の山―――もとい、執務室いっぱいの本の山脈を思い浮かべると頭痛がしてきたような気がする。
「あの…兄様、ほさちさん。わたしも手伝いましょうか?」
黄昏れるふたりを見かねて、おずおずと声をかける雪奈。
「ほんと、雪奈ちゃん?じゃあ、おねが・・・」
「いや、雪奈は帰っていいよ」
ほさちの言葉を途中で遮って、やんわりと申し出を断る雪乃。
「それで、いいんですか…?」
と、困ったような表情を浮かべて雪奈。
「うん」
ほさちが恨みがましい視線を投げかけてくるが、無視して頷く雪乃。
「雪奈は夕飯の買い物でもして、先に家に帰ってよ。
雪奈まで遅くなったら、きっとお腹を空かせた雪流がぴーぴー鳴いてるだろうしね」
と言って、雪乃は苦笑する。
「はい、わかりました」
雪奈は笑みを浮かべて頷く。
おなかすいたよぉ〜、ゆきなちゃん、ごはんまだぁ…?と、涙目になっている雪流の姿を思い浮かべてしまい、笑みがこぼれたのだ。
「しょうがないですね…じゃあ、ふたりで頑張りましょうか」
と、諦めのついた口調でほさち。
「すまないね、ほさち」
「すみません、ほさちさん」
声を揃えて雪乃と雪奈の兄妹。
言ってる内容は同じだが、雪奈は頭を下げてるのに対し、雪乃は笑っている。
そして、雪乃は笑みを唇の端を吊り上げた人の悪い笑みに変えて
「まぁ、でも…ほさちはひとりで片付けてくれてもいいはずなんだぞ?」
「なんでですか!?」
雪乃の発言に対し、声を荒げるほさち。
「だってー、わたしさー、久しぶりにプロンテラに帰ってきたんですよ」
ほさちが「それはわたしもですよー…」と、言ってるが無視して
「だから、久しぶりにかわいい妹たちと家族団欒の時を過ごしたいので、そこらへん気遣うべきです」
と、締めくくる。
「えー…」
半泣きで不服そうな声を上げるほさちを見ると、雪乃は相好を崩して
「でも、わたしは女の子ひとりで力仕事をさせるような冷血漢じゃないので…ふたりで頑張りましょうか」
小さくガッツポーズをとる。
「うんうん」
力強く頷くほさち。それを見て雪乃は微苦笑を浮かべる。
「……」
雪奈はそんなふたりのやりとりを見てうつむく。何か息苦しいような気がした。
それは置いてかれたような寂しさと、認めがたい嫉妬の情が胸を締め付けるから…
(兄様とほさちさんは、同僚同士だから…仲がいいのは普通じゃないですか)
そう自分に言い聞かせるが、黒いもやがふつふつと心に沸き上がり、心を苦しめる。
「―――ちゃん?」
聞こえる声が遠い。
「雪奈?どうしたんだ?」
「どうしたの、雪奈ちゃん?」
気づくと、心配したように雪乃とほさちが雪奈の顔を覗き込んでいる。
はっと、雪奈は顔を上げて
「えっと…その、夕飯の献立を考えていて」
と、慌てて言い繕った。
「そっかぁ…」
「そうですかぁ…」
雪乃とほさちのふたりは安堵の息をつく。
「急に黙り込むから、心配してしまったよ」
「すみませんでした…」
苦笑して言う雪乃に雪奈は頭を下げる。
「謝ることじゃないって、別に」
そう言って、雪奈の頭を撫でる雪乃。
「はい…」
雪乃の手のぬくもりと、優しい手つきが心の黒いもやを取り去ってゆく。
「あの、兄様…お夕飯のリクエストはありますか?」
先ほどまでとは違って、晴れやかな笑みを浮かべて尋ねる雪奈。
「んー…」
雪乃は腕を組んで思案する。
「そうだなぁ…ハンバーグにシチューかなぁ」
どちらも雪乃の好物である。久しぶりの我が家での食事なので好きなものをリクエストすることにしたようだ。
「はい、わかりました。腕によりをかけて作りますね」
雪乃の考えている事がわかったので、微笑みながら小さくガッツポーズをとって雪奈。
「楽しみにしてるよ。夕飯時には帰れないだろうけど…」
雪乃は指で頬を掻いて、苦笑する。
「そうですか…」
少し残念そうな声を漏らす雪奈。
「まぁ、今日は雪流とふたりで先に食べててよ。で、明日はちゃんと三人で食べような」
「はいっ」
雪乃の言葉に雪奈はこくん、と頷いた。
その雪奈の反応を見て、雪乃は満足げに頷くと
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
ほさちに声をかけた。
「そうですね」
頷くほさち。
「兄様、ほさちさん、頑張ってください」
「ありがとう、雪奈ちゃん」
「うん、ありがとな」
雪奈の言葉に雪乃とほさちのふたりは笑みを浮かべて返す。
「それじゃ、行ってくるよ」
「いってきます」
そう告げて、歩き出すふたりを
「いってらっしゃい」
雪奈は微笑みながら小さく手を振って見送った。
「ふぁ…」
雪奈は口元を抑えて、小さくあくびをする。
目をこすりながら壁にかけられた時計を見ると、時間は夜の11時をすでにまわっていた。
(兄様、ずいぶんと遅いですね…)
雪乃は雪奈と雪流が夕飯もお風呂も済ませても帰ってきてなかった。
だから、雪奈と雪流はリビングのソファに腰掛けて兄の帰りを待っていたのだが…
「んにゅ…すやすや」
銀色の髪を背中まで伸ばした愛らしい少女―――パジャマ姿の雪流は雪奈に寄りかかって、穏やかな寝息をたてている。
余談であるが、雪奈もパジャマを着ていて、雪流のが赤と白のチェック柄で雪奈のが青と白のチェック柄である。
「ふにゅ…」
もともと早寝である雪流はこの時間まで起きているのは辛いらしく、ずっと眠たそうに目をこすりながら
雪乃の帰りを待っていたのだが、結局眠ってしまっていた。
雪奈は自分の肩に頭を乗せて眠る雪流の寝顔を優しげな瞳で見つめて
「姉様は、こどもみたいですよね…」
と、囁いた。
普段から雪流は甘えん坊で、ちょっぴりわがままで…といった具合に子供っぽいので
幼子のような穏やかな寝顔を見ていると、姉というより手のかかる妹のように思えてしまう。
「でも…」
(ゆきなちゃん、なかないで…)
(ゆきなちゃん、ボクがいるからだいじょぶだよ)
(だから、ゆきなちゃんわらってよ)
子供の頃、雪流は雪奈が泣いてるとすぐに駆けつけて来てくれて、頭を優しく撫でて慰めてくれたのだ。
だから―――
「でも、姉様は姉様ですよね」
雪流が自分のことを大事に思ってくれていて、やはり姉は姉なのだと雪奈は思う。
「ん…ゆきなちゃん」
小さかった頃に思いを馳せていると、不意に雪流が雪奈の名を呼んだ。
「はい?」
雪奈は、雪流が起きたのかと思ったが
「ボクが…」
雪流がわずかに身をよじると、頭が雪奈の肩からふとももの上にずり落ちて、ちょうど膝枕をした形になる。
「いるから…んにゅ」
どうやら、寝言だったようだ。
「あらあら…」
もしかしたら、雪流も子供の頃の夢を見ていたのかもしれない。
「そうだとしたら、やっぱり双子ですし…同じことを考えているってことでしょうね」
雪奈は、くすくす、と静かに笑いながら、まるで母親がそうするように優しく雪流の頭を撫でる。
「にゃぅ…すやすや」
リビングには優しい時間が流れていた。
時計が0時をまわったころ、さすがに雪奈も舟を漕ぎ始めた。
思い出したように時々わずかに揺れる上体がぴくっと、止まっては目をこすり、また舟を漕ぎ始める―――
何度かそんなことを繰り返していると、ガチャっというドアの開く音が聞こえた。
雪奈はその音に反応してゆっくり顔を上げると、リビングの入り口に白髪で黒い服を着た人が佇んでいる。
寝ぼけ眼では、ぼんやりとしか見えず一瞬そこに立っている人影が誰かわからなかったが
「ただいま…」
と、力なく帰宅を告げられ、それが兄―――雪乃であると気づいた。
「あ…おかえりなさい、兄様」
雪奈はソファから立ち上がろうと腰を浮かしかけたが、雪流が膝を枕にしていることを思い出し
ソファに腰を下ろし直す。
「う〜…」
急に雪奈が動いたせいか、雪流が居心地の悪そうな声を漏らす。
「ごめんなさい、姉様」
囁くように、小さな声で謝る雪奈。
今ので起きたかと思ったが、雪流は熟睡したままだった。
「雪流、やっぱり寝ちゃったか」
ソファの前までやってきて、雪乃は苦笑混じりに呟く。
「ええ…雪流姉様にしては、遅くまで起きてたんですけど」
普段、雪流は遅くても10時前には寝てしまうので、11時近くまで起きていたのは大変だったはずだ。
「そっか…適当なトコで切り上げて、すぐに帰ってくれば良かったかな」
それでも雪流が遅くまで起きて待っていたのは、ひさしぶりに兄に会えるのを楽しみにいたからだろう。
そんな妹を愛しく思う反面、結局寝てから帰ってきたことを申し訳なく思う。
「相変わらず、かわいい寝顔してるなぁ」
雪乃は身を屈めて、雪流の頭を撫でる。
「そういえば、ずいぶん帰りが遅かったですよね」
雪奈の言葉に、雪乃は雪流の寝顔をから雪奈へ視線を上げて、答える。
「ん、あぁ…掃除以外にもやることあって、明日に持ち越しても良かったんだけど
結局、今日中に全部済ませちゃおうってことになってね…」
それに、ほさちを送ってたし…と付け加える。
「それは、おつかれさまです…」
「ありがと」
雪奈の労いの言葉に対し、雪乃は軽く笑みを浮かべる。
どこか力のない感じがするのは、疲労のためだろう。
「あ…兄様、夕飯はどうしますか?
それとも、今日はもうお休みに―――」
「あぁ、いただくよ」
雪奈の言葉を途中で遮って、雪乃。
「せっかく夕飯のリクエストしたんだから、何も食べてないんだよね」
と、雪乃は苦笑する。
「それでは、すぐに用意しますね」
「うん、雪流をベッドに寝かしつけてからね」
雪乃の言葉に、雪奈は「あ…」、と呟きをもらし
「そうですね」
雪流は既に熟睡してるので、このままベッドに連れて行ったほうがいいだろう、と思い頷いた。
「よいしょ…」
小さく掛け声をあげて、雪乃は起こさないように、そっと雪流を抱き上げる。
「軽いなぁ」
抱き上げた雪流の軽さに、ぽつりと呟きをもらす雪乃。
雪流は小柄で背も胸も妹の雪奈に負けているので、軽くて当然だろう。
「あ…」
雪乃はリビングを出ようと歩き出して、小さく声を上げた。
「…?」
「雪奈もついてきて。ドア開けて欲しいし」
両手が塞がってることに気づいて、雪奈は「はい」、と頷いて立ち上がった。
「んー…下の段でいいかなぁ」
「そうですね」
と、二段ベッドの前で、雪流を抱えた雪乃と雪奈。
雪流と雪奈の部屋は姉妹共同のためベッドは二段ベッドであり、上の段が雪流、下の段が雪奈となっている。
が、疲労した腕力で雪流を上の段に寝かせるのは難しいので、今日は下の段に寝かせようという運びになった。
「じゃあ、今日はいつもと上下逆ってことで」
雪乃はゆっくり屈むと、雪流を下の段に寝かせて、毛布を掛けてやる。
「これでよし…と」
小さく呟いて、立ち上がって―――
ガンっ…
「うぐ…」
上の段に頭をぶつけた。
「だ、だいじょぶですか…?」
小さな声で雪奈。
「だ…だいじょう…ぶ」
頭を抑えながら、消え入りそうな声で答える雪乃。
「あの…ヒールしますか?」
だいじょうぶ、と答えたが、雪乃は頭を抑えてしゃがみこんだままなので、雪奈は心配になって声をかけた。
「いや、いい…平気」
と、雪乃は頭から手を下ろして立ち上がる。
「なんか、醜態さらしちゃったね…」
雪奈のほうを振り返って、苦笑する雪乃。
「ふふ…」
それにつられて、雪奈は口元に手を添えて静かに笑う。
「姉様を寝かしつけたことですし、夕飯にしましょうか」
「そうだね、それじゃあ…」
雪乃は雪流を振り返って
「おやすみ、雪流」
と、告げると
「おやすみなさい、姉様」
雪奈もそれにならった。
そして、ふたりは静かに部屋を出た。
じゅ〜っという肉が焼ける音といい匂いがキッチンに満ちていく。
雪流を寝かしつけて、1階に戻ってきた雪奈は早速夕飯の用意を始めていた。
「ふんふんふ〜ん♪」
と、鼻歌混じりに料理をするエプロンをつけた雪奈。そして、その後姿をテーブルに着いた雪乃はにこにこしながら眺めている。
ちなみにエプロンは汚れの目立たない黒の無地である。
雪奈はフライパンの上の肉―――ハンバーグを裏返し、いったんフライ返しを置くと
隣の火にかけてあるシチューの鍋の中身がこげつかないように、軽くおたまで掻き混ぜる。
少しの間、鍋を見てから、再びフライパンのほうに戻り、ハンバーグを裏返して焼き加減を確かめる。
「いい感じですね…♪」
程よくハンバーグが焼きあがっていることを確認すると、出して置いた皿の上にハンバーグを乗せる。
すると、再びフラパインを火の上に戻して、ケチャップとウスターソースを少量入れて手早くソースを作る。
ソースが出来上がると同時に鍋の火も止めて、ハンバーグにソースをかける。
ソースをかけ終え、千切りにして置いたキャベツを盛り付けると、フライパンに水を入れて流し台に潤かして置く。
そして、シチューをスープ皿に盛り付け、小皿にパンを乗せて、後はテーブルに並べるだけになった。
ハンバーグが焼きあがってから、ここまでの動作は流れるようだ。
(家事をしているときは、まるで別人のようだ…)
と、雪乃は思う。
普段の雪奈はおっとりとしているため、家事をしているときのテキパキとした動きにギャップを感じるのだ―――
「さあ、兄様。用意ができましたよ」
などと思っているうちに、雪乃の前には既に料理が並べられていた。
「あ、あぁ…いただきます」
フォークとナイフを手に取る雪乃。
「どうぞ、召し上がれ」
と、雪乃の傍らに立って微笑む雪奈。
雪乃はフォークとナイフでハンバーグを切り分けると、一切れをフォークで刺して口へと運ぶ。
「もぐもぐ…」
「どうですか?」
雪奈は感想を聞く。雪乃の嬉しそうな表情こそが答えなのは分かっているのだが。
「すごくおいしいよ。さすがは雪奈」
「ふふ、ありがとうございます」
雪乃の賛辞の言葉に、雪奈は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
こうして、雪乃が雪奈の料理に賞賛しながら食事はつづかなく進んでいく。
「雪奈ー?」
雪乃のその声に、雪奈はハっと顔を上げた。
何か頭に残るような、もやがかかったような鈍い感覚…どうやら立ったままウトウトしてようだ。
「あ、すいません…」
「いや、眠いなら寝ていいよ。もうだいぶ遅いしさ。それに雪奈は朝早く起きて、朝ご飯も作るんだし」
「そうですか…でも」
と、雪奈はテーブルの上に視線を移す。
テーブルの上の皿にはまだ料理が少し残っている。
「ん…あぁ、片付けなら自分でやるから」
「それでは、お言葉に甘えさせていただきますね」
雪奈はエプロンを脱ぐと雪乃の隣の椅子にかける。
「おやすみなさい、兄様」
そして深々と一礼する雪奈。
「おやすみー」
と、返す雪乃。
雪奈はキッチンの出口へと向かう途中で足を止めて
「あ…」
と、小さく声を上げた。
「ん…?」
雪奈が振り向くと同時に、雪乃も食事の手を止めて肩越しに振り向く。
「兄様、お風呂のお湯は流さないでくださいね。洗濯に使いますから」
「ん、わかった」
「それでは、おやすみなさい」
雪奈は再度一礼してキッチンを後にした。